バングラデシュ

バングラデシュ 滞在記 (1973年10月~1975年3月)

 

夫の仕事の関係で、1年半ほどバングラデシュのダッカで生活しました。
当時子供は5歳と2歳。私は東京都庁に勤めており、退職して夫の任地に行くべきか悩みました。
しかし独立間もないバングラデシュで、単身暮らす夫の健康などを考え子供と共にダッカに行くことにしました。
1973年10月から1975年3月に帰国するまでの1年半、色々なことを経験しました。

1973年10月~

ダーマンディーの社宅

10月の初め、長男と長女を連れバンコク経由でダッカへ。
初めての海外旅行、しかも二人の幼い子供を連れての旅行はとても心細いものでした。
バンコクで出迎えの夫の顔を見た時はホッとしました。
バンコクで一泊したのち、いよいよダッカへ。
ダッカ空港に近づいて機内から下を見て驚きました。。
洪水に遭ったように一面水に覆われ、所々に道路が走っているのが見えるのみ。
いったいどこに人が住んでいるのだろうとビックリでした。

無事ダッカ空港着、手続きを済ませ車で社宅へ。
外国人が多く住むダーマンディー地区にある家で、とても広い住居でした。

リキシャと呼ばれる人力車

慣れない土地での新しい生活が始まりましたが、驚くことばかり。
使用人が5人いて、それぞれ役割があります。
クック、ベアラー、スイーパー、マリー、チョキダリの5人です。
料理・掃除・洗濯・身の回りの世話等すべて使用人がやってくれます。
家事をやる必要はなくても、慣れない土地で使用人を使っての生活は大変でした。
言葉の壁、生活習慣の違い等々・・・
外出もままならず。家の近くをリキシャと呼ばれる人力車かベビータクシー(オート三輪)で行き来するだけ。

ダーマンディーの家で半年生活した後、グルシャン地区に引っ越ししました。
街の中心に近く、外国人がより多く住む地域で、庭も住宅もとても広い家でした。

教育の問題も悩みの一つでした。
ダッカには日本人学校が無かったので、長男は現地のアメリカンスクールへ、長女はナーサリースクールへ入学させました。
初めは嫌がっていた長男ですが、すぐに慣れ友達も出来て英語での会話も困らなくなりました。

カントンメンゴルフ場

長女もナーサリースクールでの生活に慣れ楽しむようになりました。
子供はすぐ環境に順応できるものと感心しました。

私と言えば家事をする必要が無いため、駐在員の奥様達とのサークル活動等に参加して過ごしました。
日本ではやったことのないカードやゴルフを覚えたのもダッカでした。

 

帰国を前にお世話になった使用人の皆さんと

ほぼ1年半経ったある日、長男が熱を出し顔がものすごくむくんできました。
現地の病院に連れて行くと、医者は 「キドゥニートラブル」とひとこと。
溶連菌が腎臓に入って起こす急性腎炎でした。
安静と食事療法しかなく治療法がないとのことで、急きょ日本に帰国することになりました。

バンコク経由で帰国することにしましたが、その当時ダッカからバンコクへの飛行機は火曜と金曜日の週2便のみ。
搭乗予定の飛行機がトラブルでなかなか出発できず、バンコクでの乗り継ぎに間に合うかハラハラドキドキ。ようやく数時間遅れで離陸し、バンコクでなんとか成田行きの便に乗ることが出来ました。
3月初めの寒い寒~い日、家族3人無事日本に帰国しました。

バングラデシュでの1年半の生活はいろいろ苦労もありましたが、楽しい思い出も多く貴重な経験をすることが出来ました。

物資の乏しい、独立間もないバングラデシュで生活を共にした仲間の絆は固く、今でも年に数回は集まって旧交を温めています。

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